北本光峰主宰 東洋易学研究会 易は開運成功のお手伝い

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自然の理法に従う
人類の文明開化
八卦を創案した伏儀
日本初の学校・足利学校?
易者の智恵を活かした男?

開運、成功への道

自然の理法に従う

       才能と資質は天命です。
       
       運気の盛衰、運勢は
        万人に巡る天運です。

       日々の思いと決断、言葉と行動、
        反省と感謝が、運命をつくる。
         これは人運です。

       
       運命学は、自然の理法を
        知るための、先人の英知。

       幸せは、自然の法則に
        従ってこそ得られます。

       素直な心で、
        人生に活かしましょう。

                   北本光峰


人類の文明開化


4大文明開化地域
約5000年前、上図各地の流域に文明開化が始まる。



古代史の地域相関図

5000年前、日本はまだ縄文時代の真っ只中。
(上図の年代は西暦、紀元前、紀元後を示す)


八卦を創案した伏儀

伏儀の八卦図 伏儀1 伏儀2

八卦の図

「八卦」は約5000年前「伏羲(ふくぎ)」が創案したとされている。

5000年前と云えば、メソポタミヤ、エジプトに国家形態の発生が見られ、エーゲ文明、インダス文明が起こりつつあった頃である。日本では各地に大集落が形成されつつあった時期で、弥生時代より前の縄文時代の真っ只中である。
 伏羲は中国神話の三皇の一人。母の華胥(かしょ)が巨人の足跡を踏んで孕んだと伝えられ、蛇身人面、牛首虎尾だという。八卦を創り、漁猟法を民衆に教えた聖王で、女媧(じょか)と一対の創造神である。旅順博物館には、伏羲が女媧と相交わって世界を支える、古代の絹画が保存されている。

 中国の伝説上の最古の王朝「夏」時代には連山易が、次の「殷」の時代には帰蔵易があったとされるが現存していない。

 殷を倒した(西暦前1050年頃)「周」の時代に文王、周公により易書が編纂され、その後の「春秋時代」に孔子により完成されたのが現在の周易だ。 

 日本ではこの頃とて縄文時代の後期。その後、弥生時代、古墳時代を経て飛鳥時代、奈良時代、平安時代・・・と移っていくことを考えると、易がいかに古代のものか、が分かる。

 きわめて難解な書であるにも関わらず、数千年にわたって活用されてきたのはその実用性の故である。

仏教経典や聖書とは違うこの実用性は、現代にも生きている。

 その後、春秋時代になって孔子が、十翼と呼ばれる書物を著し、周易を完成させ、卜占の学を高度な哲学のレベルにまで高めたのです。

 陰陽師は易の活用で怪力乱神の面に重点を置いたのですが、孔子はこの種の神秘的なものは思考の枠外に置き、儒学という政治哲学、実践的な倫理学の体系の中に易を組み込んだのです。

 孔子は「易は人の惑いを決定するものである。易によりこの惑いを断ち、方向を決定する事が出来る。
こうして未来の方向が決定されるならば、人間はその時、自分は何をなすべきかを決める事が出来る。
やがて来るべき事象に対する準備と予備の行動が可能になる。
 その点で易による判断と決定は、人間にすぐれた処世の知恵を与えることになるのである。」と述べています。


孔子と易経十翼

孔子図 易経の図

筮竹 八卦サイコロ


孔子の著した十翼とは・・・

彖伝(たんでん)上下・(彖辞の意味を詳しく説き伝えている書)
象伝(しょうでん)上下・(六十四卦の各卦と各爻の象(かたち)にならって、人のとるべき道を説き伝えている書)  
繋辞伝(けいじでん)上下・(易の本来、真意を詳しく説きあかしている書)
説卦伝(せっかでん)・(易の卦の意味、主として八卦の意義を説きあかしている書)  
文言伝(ぶんごんでん)・(乾卦・坤卦の二卦について詳しく説き伝えている書)  
序卦伝(じょかでん)・(六十四卦の配列の順序について説き伝えている書)
雜卦伝(ざっかでん)・(六十四卦の各卦の意味を短い辞で説き伝えている書)  
・・・以上の十巻です。


日本初の学校・足利学校

足利学校1 足利学校2 

足利学校3

日本では現在の栃木県足利市に日本で最初の学校「足利学校」が開設された。教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。

戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。
学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。一時は五千人の学生がいたといわれている。

足利学校(あしかががっこう)は、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。

ここの卒業生を、上杉謙真や武田信玄などの武将が引き抜いたと言われ、易を一般教養というより実占として使ったと見られる。徳川家康に仕えた天海僧正も、足利学校を出ているといわれている。したがって、当時の山本勘助のよう軍師は殆ど易が出来たようである。

・江戸時代中頃より、各藩の指導原理として易経は最重視された。

・加賀藩の「明倫館」の学頭、新井白蛾は易聖の一人として有名。

・水戸学の「講道館述義」も易経が芯になっている。
    
・明治天皇は、根本通明博士のご進講で易経を学ばれた。

また、明治、大正の政治家はみな本格的に易を学び、このため出処進退を過たなかったと言われている。


易者の智恵を活かした男

武田信玄 山本勘助
武田信玄と易者で軍師の山本勘助。

織田信長豊臣秀吉竹中半兵衛黒田官兵衛 
織田信長・豊臣秀吉と、二人に仕えた竹中半兵衛・黒田官兵衛の易者で軍師の両兵衛。

徳川家康 天海大僧正
徳川家康と、易者で僧侶の天海大僧正

伊藤博文 高島嘉右衛門
伊藤博文と、親交の深かった明治の易聖で実業家の高島嘉右衛門(高島呑象)。

松下幸之助 加藤大観師と松下幸之助
松下幸之助本宅二階に寄寓すること約20年。易者で僧侶の加藤大観は、松下幸之助の思想に大きな影響を与える。大観師の没後すぐ幸之助は所得日本一になる。上は二人の対話風景。


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